好きだ、

以前、録画しておいた『好きだ、』を観た。
たぶん3度目になるが、
やっとこの映画の素晴らしさに気づいた。
あの時言えなかった「好きだ、」の言葉・・・
それは「好きだ。」ではなく「好きだ、」として、
完結しないで今に続いている。
自分も、中学の時に好きだった子に、
間接的に好きだと言われたが、
何も返せないで逃げてしまった。
僕は映画のヨースケと同じ気持ちで、
10代を終えて、
20代後半に移ろうとしている。
変わっていくことと、
変わらないでいること・・・
そんな今に続く自分と向き合うと、
今も何も変わっていないなと思う。

「好きだ」という言葉に込めた思いに素直になった時、
変わらないものが変わらないで輝き始めて、
動き出すんだろう。
人を好きになって、
自分が少しづつ前に進んでいける
それは「。」でなく「、」という、
完結しない、続いていくということ、
生きて分かち合いたいという思いに繋がるんだろうと思った。

傾向と対策と経験・・・

人の感性は人それぞれですが、
時々、分かり合えないくらいになんで?ということがあります。
感性と合うひとと、合わない人はいますが、
分かり合えない、分かり合おうとしてくれないというのがちょっと苦しくもなる場合があります。
どんなに提案しても筋を曲げないというのは素晴らしいものですが、
最近「妥協」という言葉がとても素敵に思えます。
互いの中間をとって分かり合って協調することです。
提案するたびに、即答で却下されるというのが最近あり、
それは自分が今までにそんなことで否定されるなんて・・・って部分でもあり、
これでも大丈夫だという言葉も聞かない状態です。
自分の対応も悪かったとは思います。
さまざまな人がいるということを踏まえると、
今回の経験はとても良い経験でした。
自分のやり方というものを押さえつけることもしていたかもしれませんし、
強がっていた部分もあります。
ちょっと思考の転換をして、
やり方も考えなくては・・・というのが今後の課題です。
自分の立場というのを踏まえて、
その立場での取り組み方は、
状況によって違ってくるものですね。

基本的に全部を肯定して否定するというのが姿勢であり、
肯定してのヴィジョン、否定してのヴィジョンを想定したり思考したりします。
そしてまずは自分が好きなものを作る。
それが最低限の礼儀ですね。

傾向と対策をもう一度練り直しです。

装丁の世界

以前、情熱大陸での特集から気になっており、
個人的にお気に入りの装丁家鈴木成一氏が、
プロフェッショナル仕事の流儀にて特集されていました。
装丁家というのは簡単に言うと、
本をデザインする人です。

小説やエッセイを買う時に、
装丁を誰がやったのか?というのをよくチェックしますが、
鈴木氏の装丁した本は気がつけばたくさん持っていたりしますし、
先日、ブックオフで表紙があまりにも魅力的で、
ブックカバーが半透明の紙に水槽が印刷されて、
本自体に熱帯魚が印刷されており、
ブックカバーとの組み合わせによって、
ぼんやりと水槽の中に熱帯魚が泳いでいるという、
やられた!となりジャケ買いしてしまった、
吉川栄治氏の「パイロットフィッシュ」(写真)は、
まだ最初しか読んでいませんが、
熱帯魚好きにはいろいろな熱帯魚ネタ(全体の内容はともかく熱帯魚のトリビアはじめだけかもしれませんが)
好きにはおもしろいかもしれません。
小説好きなら読んだことがあるだろうという本は、
ほとんど鈴木氏がやっているのかもしれないくらいで、
年間に700冊くらいの装丁をしているらしく、
常に仕事が重なり、締め切りに追われる毎日みたいです。
他の装丁したものはドラマにもなった、
東野 圭吾氏の「白夜行」などもそうです。

装丁をしているデザイナーで、
その人の色があるという人がいて、
見た目でこれはあの人だと分かるのと、
これもあの人がやっているんだ!となるのがありますが、
前者で言えば、原研哉氏の装丁した本(原田宗典氏の本はほぼ全部やっています。あと集英社新書のカバーなど)は、
独特の決まった文字の置き方フォーマットと、
フォントの使い方ですぐにわかります。
中島英樹氏も自分のフォントを使っており、
独特の間の使い方で、
すぐにわかります。

鈴木氏は後者の場合が多く、
本の内容の持ち味を引き出すというか、
見た目から滲み出させるシズル感を出すのが巧妙で、
前者の人たちのような自分のある程度の
フォーマットをもたないで、
文字もそれぞれの本に見合ったモノを使い、
当たり前だと思いますが、
きちんと中身の内容を読み(朝5時に起きて読んでいました)、
理解をしたうえで装丁をしていました。
当たり前のことがやはりできるかできないかというのが、
これだけお仕事を頼んできてもらえるかに繋がってくるんだろうとも思いました。

制作の中で印象的だったのが、
「無意識で見る」というところでした。
常に仕事が重なっている中で、
迷ったもの、アイデアが出ないものは、
まずたたき上げを制作して、
その仕事だけに意識を集中しすぎて、
煮詰まりすぎてしまうというのでは、
本当にどうしたら良いものになるのか、
答えが出せないという場合は、
違う仕事を始めて、
たたき上げで仕上げている見本を、
机の上に置いて、
他の仕事に意識をもっていきつつ、
その見本は意識の中心外で見て、
本屋で並ぶとどうなるだろう?とか、
これはこうしたほうがいいのでは?
というような、制作から一歩引いた客観的な
良い意味で気楽でフラットな視点・思点で感じ取り、
主観からではなく、客観観察からアイデアを見つけるというのには、見習って真似したいと思いました。
まっすぐに思考がなりすぎると、
思い込みだけが先走って、
これしかないとか、これのどこが自分で気に入らないのか?
どこをどうしたらいいのかわらかなくなってしまった・・・
などのことが多々あるので、
自分で作ったものを、
机の上に飾ってみるというのは、
観てるだけで凹みそうなダメなものばかりですが、
その凹みがより良いものへのきっかけになるのかもしれないと・・・と思いつつ、実践したいものです。

人間の関係性と数式

先週くらいに、
ブックオフで買った『博士の愛した数式』の文庫本を
少しづつ読んでいたのと偶然にもタイミングがよかったのか、
土曜にテレビで映画版の『博士の愛した数式』を観ました。
原作とは違う展開(小説の方はまだ30ページほどしか読んでいないのではっきりとわかりませんが)で、
凄く難しい数式がたくさん出てくる内容なのが、
とても分かりやすくて、
数式はとても難くて見たくもないというくらいに嫌悪感が、
学生時代の呪縛みたいなのがありましたが、
この映画を観て、
数式の美しさと愛すべきものだということになるなというのを実感しました。

主人公の博士は、
交通事故で80分しか記憶を覚えられないことになっており、
いつまでも同じ時間軸を繰り返して生きていて、
そんな博士を面倒をみるために、
家政婦さんが来て、
博士と家政婦さんとその息子が、
数式を中心にストーリーが進んでいく内容です。

素数や階乗、自然数虚数、π、eなど、
一度は勉強したことがあるものが出てきて、
オイラーの公式の説明がとてもわかりやすくて、
オイラーの公式は、
πというどこまでも続く円周率と、
i(imaginary number)という虚数数字√−1と、
eという定数でπと似た果てしなく続く無理数(e = 2.71828 18284 59045 23536 02874 71352 …)
このπもiもeも決して繋がらない
矛盾した3つのものが寄り添い、
そこに1が足されると、
0(ゼロ)になり無となる。

eiπ + 1 = 0(正しい書き方は写真参照)

このオイラー公式がこの物語を語る上で一番大切になる、
愛すべき数式になり、
この3つの記号と1が加わるということを
決して繋がることのないと思われた
人間関係と例えており、
まったく違う人たちが出会い、
そして共有しあう関係性が生まれるということを
オイラーの公式に置き換えています。


矛盾したものたちが寄り添い合い1つ足されると、
プラスにもマイナスでもないゼロになるということ。
互いの矛盾なことを互いが寄り添うことで理解し合い、
あるがままを受け入れ合い、
自然に任せるという一つの軸を足すことで、
0(ゼロ)という輪(和)が生まれると考えると、
とても素敵に思います。

無関係な繋がりの中に自然の繋がりを発見すること。
それを発見するには「感じる」ことの大切さ。
偶然の幸せに出会うセレンディピティにも似ている
気がします。
多くとも少なくともない、
±0の関係。
無になるのではなく、
無に帰化するというのが自然の摂理なんでしょうね。

とても素敵な映画です。
小説の方もきちんと読み上げたいです。

感動の因子

「感動」というものに最近よく考えます。
今日、バイト先で久々に一緒に働いた、
社員さんのオムライスの巻く体の動きと、
フライパンの動きとオムライスの形が、
しなやかに無理がなく、
自然と形作られていく瞬間(たぶん2秒くらいでした)を
観た瞬間に「すごい!」と声を上げてしまいました。
こんなに歓喜に満ちる瞬間は久々に味わった気がします。
オムライスがキレイに巻けているというのに感動したのではなく、
オムライスが形作られるプロセスに感動したということが、
「感動」というものの因子は、
完結した部分ではなく、
プロセスあってのことがあるということに気づきました。
自分もオムライスを巻いていますが、
オムライスを巻くということが、
こんなにしなやかに行為に揺らぎがない、
身体のふるまいがここまでに
無駄なく環境(人とモノと環境を総合しての)と調和している
という洗練されたものとなるものだということに
きづかされたことに感動したのというのが因子となっています。
自分にとってのふつうとなっている、
オムライスを巻くという行為の、
当たり前を越えた、
他者が見せた当たり前に出会えた感動なのだと思います。

脳で感動するということと、
身体的な感動するということがあり、
脳で感動するということは、
思考で感動することで、
身体的な感動は、
例えて言えば、
手の指を切って、
お風呂で指を少し切っただけで、
こんなに違和感があるのかと思うような、
当たり前となっていた感覚が、
指を切るということで、
気づかされるというようなこと。
指を切ったことで、
指を動かすということの行為の
ふるまいに違和感が生まれることによって、
怪我をしていない時には、
なにも記憶にとめない、
日常のお風呂に入ることが意識に留まることになります。

これは思考による気づきではなく、
身体的な気づきであり、
今日、バイトの子が朝、指を切ったとのことで、
「お風呂に入った時に困るね」というと、
同感していました。
指を怪我している人には、
この話をすると、今まで同感しなかった人はいませんでした。

脳で感動するということは、
映画を観て思考して感動の因子を導き出すというようなことであり、それは誰もがこの映画は好きだというような絶対的なものはないということが言えます。
あのミュージシャンが好きだけど、
あのミュージシャンは嫌いなんていう話は、
よくあります。
コミュニティというものは、
たぶん脳での思考で集まるものだと言えるかもしれません。

それとは違い、
身体的な感動というものには、
誰もが気づくと感動する因子があると考えれます。
日常の当たり前となり溶け込んでしまっている行為には、
だれもがアルアルと話せることがたくさんあります。

心情はひとそれぞれの脳の思考・思い込み
とともに揺らぎますが、
身情はある誰もが通過するとなる状況は、
身体を通して体験するということから感じとるもので、
指を切ってお風呂に入るという状況は、
お風呂に入るという、
誰もが日常化された中で、
指を切るという日常の破綻を生じるというのは、
当たり前の中に気づきを見出す入り口となり、
誰もが気づかないけどそういうことがあるということに
なります。

朝、目が覚める時に、
目覚まし時計を手探りに探す行為。
そして気づかない内に目覚ましを止めて、
二度寝してしまったこと。

夏場に日向の暑さから逃れるために、
日陰の場所に移動する行為。

修正液が乾かないうちに、
書いてしまってにじんでしまったこと。

ショッピングをして、
買い物の袋を、
腕にぶらさげて歩いたことがあること。

日常に溶け込んだ行為の気づきには、
感動の因子がたくさん隠されている気がします。
ふるまいやしぐさの中に、
知っているようで知らないで隠れており、
自分の思い込みを越えた、
ありのままのリアリティーを身体で感じ取った時に、
生じる感動。

オムライスの巻き方に感動したというのは、
自分がうまく巻くことができるという思い込みが、
破綻するのを目の前のありのままのリアリティを見て、
身体で凄いと感じ取った瞬間だったからだと思う。
そこでは思考するよりも早くに、
身体で直感的に感じ取っていました。

ルーティンワークの中から見出される、
洗練された動き。
無駄がないスムーズなしなやかさ。
それを日常に溶け込ませるということが、
ある意味でプロフェッショナルということなのかと
感じました。

徳島を感じる音

チャットモンチーの曲は、
徳島の空気感がどこか漂っている。
徳島生まれの自分にとっては、
聴けば聴くほどに徳島の独特の空気感をチャットモンチーに感じている。
それはどこかに置き忘れてきた、
アオハルなブレを感じさせないまっすぐな思いと空想や妄想や思い込みは、
若さにあふれる気品があり、
それは大人になっても忘れてはいけないというものを感じさせてくれる。
そして、曲のメロディやリズムの間に、
徳島を感じさせてくれる。
徳島の独特の生活のリズムがメロディやリズム自体ではなく、
ゴーストノートとなる間に感じ取れる。
聴こえない部分が徳島を感じさせるということである。
余白を見るということが、
実体を知る上で必要不可欠で、
実体のみを知ろうとしても、
その実体を包む関係性を知ろうとしないと、
本質を知ることはできないものです。

チャットモンチーの「バスロマンス」は、
今へヴィーローテーションとなっています。
バスをモチーフにしているところが、
徳島を感じさせます。
少しローファイなモチーフを、
最大瞬間風速までに、
一気に持ち上げていく器量は、
底知れません。

音楽的なクオリティ、演奏力は鳥肌ものです。
生で体験したいです。

メロンはキスの味

久々にメロンを食べました。
食べごろの少し手前あたりの、
メロンのおいしい甘さよりも、
水っぽさの方が強い食感で、
歯ごたえはちょうどいい、
硬くもなくやわらかすぎることもないものでした。

久々のメロンに、
ゆっくりとメロンを味わおうと、
口の中でゆっくりと味わっていると、
ふとした瞬間に、キスの感覚を思い出しました。
もう何年もキスなんてしてもいないのに、
口の中からメロンを通してキスの感覚が蘇ってきました。
キスの味は?という質問がありますが、
メロンだとこれからは言いたいです。
どこがメロンがキスと繋がるのかは、
うまく説明できませんが、
感覚的にそう感じたので仕方がありません・・・
言うとなれば、
その水っぽい味が、
昔キスした相手のキスの味に似ていたのかもしれないのと、
ちょうどメロンのやわらかさが、
口が触れ合う感触とリンクしたのかもしれません。
もし、同じことを思う人がいるのかも?と
ちょっと気になるところです。